工場式マネジメントでIT部門を支配する不眠キングの生態
Abstract
「俺が若い頃はな」から始まる工場時代の武勇伝と、線形思考でIT開発を破壊する偉い人の観察記録
本日の観察対象
不眠キング (Homo insomnicus superiorus) 役職:偉い人 / 推定睡眠時間:3時間 / 危険度:SSR
観察記録
第一章:過去からの使者
「俺が工場にいた頃はな」
この言葉が発せられた瞬間、会議室の空気が凍る。いや、正確には諦めの空気が漂う。なぜなら我々は知っているからだ。これから始まる15分間の武勇伝タイムを。
不眠キングは工場の管理部門出身である。そこで培った「プロセス改善」への信仰は、もはや宗教の域に達している。
「プロセスを改善すれば生産性は100倍になる」
彼はそう言った。100倍である。10倍ではない。控えめに言っても、その発言は控えめではない。
工場のライン作業とIT開発の本質的な違いを、彼はまだ理解していない。いや、理解する気がないのかもしれない。ソフトウェア開発は「考える」という不確実性の塊であり、ネジを締める作業とは根本的に異なるのだが。
これはまさに「金槌を持つ者には、すべてが釘に見える」という認知バイアスの典型例である(マズローの金槌、あるいはゴールデンハンマー)。
第二章:線形思考の呪い
管理畑出身者に共通する特徴がある。それは「物事は線形に解決する」という信念だ。
A→B→C→完成。
彼らの頭の中では、すべてがこのように進む。しかし現実のIT開発は違う。
A→B→Aに戻る→C→Dかと思ったらB→なんかEが生えてきた→やっぱりAからやり直し→完成(のような何か)
これが真実である。
不眠キングは毎週月曜日に進捗を確認する。そして毎週月曜日に困惑する。
「先週80%って言ってたのに、なんで今週も80%なんだ?」
ソフトウェア開発における進捗80%とは「あと20%で終わる」という意味ではない。「まだ80%の問題が見つかっていない」という意味である可能性すらある。これは90対90の法則として知られている。
「コードの最初の90%が開発時間の最初の90%を占める。残りの10%のコードが開発時間の残り90%を占める」 ― トム・カーギル(ベル研究所)
第三章:準委任と成果物の錬金術
今日、衝撃的な場面を目撃した。
不眠キングがSIerとの会議で、準委任契約にもかかわらず「成果物」を要求していたのだ。
準委任契約とは、簡単に言えば「プロセスに対価を払う契約」である。弁護士に相談料を払うようなものだ。勝訴を保証するわけではない。
一方、請負契約は「成果物に対価を払う契約」である。
この違いを不眠キングは理解していない。いや、理解した上で無視しているのかもしれない。どちらにせよ、SIerの担当者の表情は般若のようだった。
「契約書にそう書いてありますけど」
SIerの担当者がそう言った瞬間、不眠キングは伝家の宝刀を抜いた。
「俺が工場にいた頃は、協力会社さんとはもっと柔軟にやってたけどな」
工場の下請けとITのパートナー企業を同列に語る。これぞ線形思考の極みである。
第四章:資産計上という延命装置
IT部門で密かに囁かれている都市伝説がある。
「うちの部門、実は赤字らしい」
真偽は不明だが、不眠キングの行動を見ていると、その噂も信憑性を帯びてくる。なぜなら彼は、あらゆる開発費用を「資産計上」しようとするからだ。
資産計上とは、費用を一括で計上せず、資産として複数年にわたって償却する会計処理である。これにより、短期的な損益は改善する。しかし本質的には「痛みの先送り」に過ぎない。
問題を先送りにしても、問題は消えない。利子がつくだけだ。
タイタニック号が沈みゆく中、甲板の椅子を並べ替えているようなものだ。
第五章:過労という無敵バリア
そして、最も厄介な不眠キングの特性。それは「誰よりも働いている」という事実である。
朝7時に出社し、夜11時まで働く。土日もメールが飛んでくる。
この過剰労働が、彼に奇妙な無敵バリアを与えている。
「あれだけ働いてるんだから、間違ってるはずがない」
誰もそう口には出さないが、空気がそう語っている。量が質を証明するという誤謬。これは組織を蝕む最も危険な思想の一つだ。
心理学では「努力の正当化(effort justification)」と呼ばれる認知バイアスがある。人は、多くの労力を費やしたものに対して、その価値を過大評価する傾向がある(Aronson & Mills, 1959)。
不眠キングの長時間労働は、彼自身と周囲の判断を歪めている。
間違った方向に全力で走っても、正しい場所には着かない。それどころか、正しい場所からどんどん遠ざかるだけだ。
対策
不眠キングへの対処は容易ではない。しかし、いくつかの戦略が考えられる。
1. 数字で語る
感覚や経験則ではなく、具体的なデータで会話する。「工場と違って」という抽象論ではなく、「過去3件のプロジェクトで平均2.3倍の工数超過が発生している」と示す。
2. 小さく失敗させる
大きな意思決定の前に、小規模なPoCやパイロットを提案する。線形思考の限界を、安全な範囲で体験してもらう。
3. 契約の専門家を巻き込む
準委任と請負の議論には、法務や調達部門を同席させる。「俺の時代は」が通用しない第三者の存在が抑止力になる。
4. 睡眠の重要性を啓蒙する
直接的には難しいが、睡眠不足が判断力に与える影響に関する研究を「たまたま」共有する。厚労省のデータは説得力がある。
5. 味方を増やす
一人で戦わない。同じ問題意識を持つ仲間を見つけ、複数の声として意見を伝える。「みんな思ってますよ」の威力は大きい。
観察者の所感
不眠キングは悪人ではない。むしろ、自分なりに組織のために尽くしているつもりなのだろう。
問題は「尽くし方」が致命的に間違っていることだ。
工場で培った知見をIT部門に適用する。過去の成功体験を現在に当てはめる。これ自体は自然な行動だ。しかし、環境が変われば最適解も変わる。
過去の成功体験こそが、未来の失敗の原因となる
これはクレイトン・クリステンセンが『イノベーションのジレンマ』で指摘した、組織が陥りがちな罠である。
そして最も悲しいことは、彼の過労が周囲の批判を封じ込めてしまっていることだ。「あれだけ頑張ってる人に文句は言えない」という空気が、組織の自浄作用を完全に麻痺させている。
睡眠時間を削ることは美徳ではない。それは判断力と創造性を削る行為だ。
いつか不眠キングが目を覚ますことを願って、今日の観察を終える。
比喩ではなく、文字通り「目を覚ます」ことを。まずは睡眠を取ってほしい。