「離職しそう」幻覚症状と逆効果エスカレーションの病理
Abstract
問題を大ごとにして現場を疲弊させ、その疲弊を見て「離職しそう」と幻覚を起こす負のスパイラルを生み出す少し偉い人の観察記録
本日の観察対象
離職率マスター (Homo resignationis catalyst) 役職:少し偉い人 / 得意技:ハルシネーション / 危険度:SR
観察記録
第一章:エスカレーションという名の放火
問題が発生した。
普通の組織であれば、まず現場で対処可能かを確認し、必要に応じて段階的に上位者へ報告するだろう。これはエスカレーションの基本中の基本である。
しかし離職率マスターは違う。
問題を認識した瞬間、彼はバイネームで偉い人にアラートを上げる。「〇〇さんの件ですが」と個人名を出し、状況を必要以上に深刻に報告する。
結果、偉い人は大混乱。現場の担当者が呼び出される。
これは「ホットポテト」と呼ばれる現象に近い。熱い芋を持っていたくないから、すぐに誰かに投げる。問題を解決するのではなく、問題を持っているという事実から逃れたいだけなのだ。
問題を報告することと、問題を解決することは、まったく別の行為である。
前者だけを繰り返す人間は、組織において消防士ではなく放火魔として機能する。
第二章:突然の人事という爆弾
ある日、突然の通達があった。
ロジカルモンスターを別プロジェクトに異動させるという。理由は「事業継続性のため」。
翻訳すると「保守を担当しているベテラン社員を切りたいので、その前に引継ぎ要員が必要」ということだ。なんとも香ばしい理由である。
問題は、この決定が何の前触れもなく下されたことだ。
プロジェクトの状況、チームの負荷、進行中のタスク。何も考慮されていない。ただ「人が必要だから」という理由で、歯車のように人が動かされる。
これはテイラー主義の悪い面が21世紀に蘇った姿だ(Taylor, 1911)。人間を交換可能な部品として扱う思想。
結果、私は全てのチームを一人で担当することになった。
第三章:丸投げの連鎖反応
そこに追い打ちがかかる。
炎上メーカーと丸投げ侍が抱えていたシステム刷新案件。これが「ついでに」私のところに降ってきた。
「ついでに」である。
彼らにとっては小さな仕事の移管かもしれない。しかし受け取る側からすれば、雪崩のように仕事が押し寄せてくる。
私の労働時間は17時間に達した。
これはブルックスの法則の逆パターンだ(Brooks, 1975)。人を減らしても仕事は減らない。むしろ残った人間に集中する。
遅れているソフトウェアプロジェクトへの要員追加は、プロジェクトをさらに遅らせるだけだ。 ― フレデリック・ブルックス『人月の神話』
人を減らした場合は? もちろん、残された人間が壊れるだけである。
第四章:ハルシネーションの発症
ここからが本題だ。
私は別に平気だった。ストレス耐性がクマムシ(Tardigrada)並みにあるので、17時間労働くらいでは何ともない。真空でも放射線でも生き延びるあの生物のように、私はただ淡々と仕事をこなしていた。
しかし離職率マスターは違う見方をした。
「あの人、辞めそうじゃない?」
彼の脳内で、私は離職予備軍にカテゴライズされた。
これを私は「ハルシネーション」と呼んでいる。現実には存在しない離職の兆候を、彼は幻視したのだ。
心理学では「確証バイアス」という概念がある(Nickerson, 1998)。人は自分の信念を裏付ける情報ばかりを集める傾向がある。
離職率マスターは、おそらく「忙しい人は辞める」という信念を持っている。だから忙しそうな人を見ると、自動的に「辞めそう」と判断する。
忙しくさせたのは誰なのかという点は、完全に盲点である。
第五章:3時間の拘束という追加ダメージ
ハルシネーションを起こした離職率マスターは、即座に偉い人へエスカレーションした。
「〇〇さんが離職しそうです」
偉い人は大混乱。私は呼び出された。
「何を手伝ったらいい?どうしたら大丈夫?」
3時間。私は3時間、この質問に付き合わされた。
答えはシンプルだ。
「放っておいてください」
これが最善の対処法だった。実際にそうだからだ。
仕事を増やしたのは組織の判断。それを今さら手伝うと言われても、コンテキストを理解していない人間が入ってきても邪魔になるだけだ。必要なのは時間と集中力であり、「心配している」というアピールではない。
しかし離職率マスターにとって、「何もしない」という選択肢は存在しない。
第六章:「何かしなきゃ」症候群
これは「行動バイアス(Action Bias)」と呼ばれる認知の歪みだ。
人は、何もしないよりは何かをした方が良いと考える傾向がある。たとえその行動が状況を悪化させるとしても。
サッカーのPK戦で、ゴールキーパーが左右どちらかに飛ぶのは、真ん中に立っていた方が統計的には有利にもかかわらず、「何かしなきゃ」と思うからだ(Bar-Eli et al., 2007)。
離職率マスターも同じだ。
問題を見つけたら、何かアクションを起こさなければ気が済まない。そのアクションが逆効果だとしても、「自分は何かした」という事実が重要なのだ。
これは自己防衛でもある。何もしなくて問題が起きたら責められる。何かして問題が起きても、「できることはやった」と言い訳できる。
組織にとって有害なのは後者だが、個人のリスク管理としては後者の方が安全。この構造が「何かしなきゃ」症候群を蔓延させる(Pfeffer & Sutton, 2006)。
第七章:選択的な強さ
そしてもう一つ、離職率マスターには特徴的なパターンがある。
誰に強く出るかを選んでいる。
プロセス原理主義者には強く言えない。なぜなら、彼は反論してくるから。傷つく可能性があるから。
しかし現場の担当者には詰める。反論しづらい立場にいるから。
これは「権力勾配」を巧みに利用した行動だ(Hofstede, 1980)。自分より下の立場には厳しく、同等以上の立場には従順。
表面的には「部下思い」を演じながら、実際には自分の安全を最優先している。本当に部下のことを考えているなら、プロセス原理主義者にこそ声を上げるべきなのだが。
対策
1. エスカレーションの前にワンクッション
「これ、本当に上に上げる必要ある?」と一度立ち止まる習慣を組織に根付かせる。チェックリストを作り、エスカレーション基準を明文化する。
2. 「離職しそう」報告の検証
離職の兆候を報告する際は、具体的な事実の提示を求める。「なんとなく」「雰囲気が」は受け付けない。
3. 本人に直接確認する文化
第三者経由の情報ではなく、当事者に直接確認する。「忙しそうだけど大丈夫?」と聞けば、大抵の問題は解決する。
4. 「何もしない」を選択肢に
マネジメントにおいて「見守る」「待つ」も立派な行動であることを教育する。すべてに介入する必要はない。
5. 権力勾配を可視化する
誰に対してどういう態度を取っているかを、第三者の目でフィードバックする。本人は無自覚なことが多い。
観察者の所感
離職率マスターは、悪意を持って行動しているわけではない。
「問題を報告しなければ」「何かしなければ」「部下を守らなければ」
その動機自体は、おそらく善意から来ている。
しかし、結果として彼が生み出しているのは以下の悪循環だ:
- 過剰なエスカレーションで現場が混乱
- 混乱した現場を見て「離職しそう」とハルシネーション
- さらにエスカレーションして現場を拘束
- 拘束された時間の分、仕事が遅れる
- 遅れた仕事を見て「やはり限界だ」と判断
- 1に戻る
この無限ループを、本人は「自分は頑張っている」と認識している。
最も厄介なのは、この人物が「離職率マスター」と呼ばれる所以だ。彼の行動パターンは、実際に人を離職させる可能性がある。ハルシネーションが現実になるのだ。
自己成就的予言(Self-Fulfilling Prophecy)という概念がある(Merton, 1948)。「この人は辞めそうだ」と思って接すると、本当に辞めてしまう。予言が予言自身を成就させるのだ。
離職率マスターよ、あなたが恐れている離職は、あなた自身が生み出している可能性がある。
参考文献
- Bar-Eli, M., Azar, O. H., Ritov, I., Keidar-Levin, Y., & Schein, G. (2007). Action bias among elite soccer goalkeepers: The case of penalty kicks. Journal of Economic Psychology, 28(5), 606-621. DOI
- Brooks, F. P. (1975). The Mythical Man-Month. Addison-Wesley.
- Hofstede, G. (1980). Culture’s Consequences: International Differences in Work-Related Values. Sage Publications.
- Merton, R. K. (1948). The Self-Fulfilling Prophecy. The Antioch Review, 8(2), 193-210.
- Nickerson, R. S. (1998). Confirmation bias: A ubiquitous phenomenon in many guises. Review of General Psychology, 2(2), 175-220. DOI
- Taylor, F. W. (1911). The Principles of Scientific Management. Harper & Brothers.
- Pfeffer, J. & Sutton, R. I. (2006). Hard Facts, Dangerous Half-Truths, and Total Nonsense. Harvard Business School Press.