離職率マスターが無自覚に実践する『人を辞めさせる技術』
Abstract
約束を反故にし、仕事を与えず、話を聞くフリをして却下し、被害者を罰する。すべてを無自覚にこなす離職促進のプロフェッショナルの観察記録
本日の観察対象
離職率マスター (Homo resignationis catalyst) 役職:少し偉い人 / 得意技:無自覚の離職促進 / 危険度:SSR
観察記録
第一章:心理的契約の破壊
ある社員がいる。仮にAさんとしよう。
Aさんは採用時、ある条件で入社した。基本給に加え、一定の残業を前提とした給与体系。家庭を持つAさんにとって、その「残業込みの収入」は生活設計の基盤だった。
ある日、離職率マスターが言った。
「残業、減らしてもらえる?」
36協定の数字を見たのだろう。残業時間が多い。だから減らせ。シンプルな論理だ。
しかしこの「シンプルな論理」が、Aさんの生活を直撃する。月々の収入が、生活に影響するレベルで減少するのだ。
これは心理的契約の破壊である。
心理的契約とは、雇用契約書には書かれていないが、雇用者と被雇用者の間で暗黙に合意されている期待のことだ(Rousseau, 1989)。「この条件で働く」という約束。それが一方的に破られた。
心理的契約の違反は、単なる不満を超え、裏切りの感情を引き起こす。 ― Denise M. Rousseau
代替案は? 基本給の見直しは?
何もない。
「残業するな」という指示だけが降ってきた。数字を見て、数字を減らせと言っただけ。その数字の向こうに人間の生活があることは、視界に入っていない。
第二章:ボアアウト ― 仕事を与えない拷問
Aさんの受難は続く。
残業ができなくなった。では、定時内で成果を出そう。そう思っても、仕事が振られない。
これは「ボアアウト(Boreout)」と呼ばれる現象だ(Rothlin & Werder, 2007)。
バーンアウト(燃え尽き症候群)は過重労働による消耗だが、ボアアウトはその逆。仕事がなさすぎて、人間が腐っていく。
「飼い殺し」という日本語がある。まさにそれだ。
給料は払う。しかし仕事は与えない。成長の機会もない。ただ席に座って時間が過ぎるのを待つ。これは静かな拷問である。
離職率マスターにその自覚はない。むしろ「負荷を減らしてあげている」くらいに思っているかもしれない。
第三章:偽りの傾聴 ― 「いいと思う」の罠
Aさんは提案した。
自分にできることがあるはずだ。新しいプロジェクト、改善案、チャレンジしたい領域。積極的に手を挙げた。
離職率マスターの反応はこうだ。
「すごくいいと思うんだけど……」
この枕詞の後に続く言葉を、私たちは知っている。
却下である。
「いいと思う」と言いながら却下する。これはダブルバインドの一種だ(Bateson, 1956)。
言葉では肯定しながら、行動では否定する。受け手は混乱する。「いいと思う」と言われたのに、なぜ通らないのか? 自分の提案の何が悪かったのか?
答えは「何も悪くない」だ。離職率マスターは単に、波風を立てたくないだけなのだ。
さらに残酷なのは、こう聞いてくることだ。
「やりたいことある?」
ある。だから提案した。そして却下された。
なのにまた聞く。「やりたいことある?」
これは傾聴ではない。傾聴のポーズだ。
「部下の話を聞いている上司」という自己イメージを維持するためのパフォーマンス。聞くだけ聞いて、何も実行しない。期待させて、落とす。その繰り返し。
学習性無力感という概念がある(Seligman, 1975)。何をしても結果が変わらないと学習すると、人は行動する意欲を失う。
離職率マスターは、無自覚にこの学習性無力感を植え付けている。
第四章:被害者有責論 ― いじめられた側を罰する
Aさんには別の問題もあった。
職場に古株のベテラン派遣社員がいる。いわゆる「お局」的存在だ。この人物がAさんに対して、あからさまに当たりが強い。
普通の管理職であれば、問題のある行動を取っている側に対処するだろう。
離職率マスターは違った。
「Aさんとあの人、相性悪いみたいだね」
そしてAさんを、その業務から外した。
被害者を罰したのだ。
これは被害者有責論(Victim Blaming)と呼ばれる認知の歪みだ。問題を起こしている側ではなく、被害を受けている側に原因を求める。
「いじめられる側にも問題がある」 「相性が悪い」 「うまくやれないあなたが悪い」
離職率マスターに悪意はない。ただ、問題の本質を見ていないだけだ。
表面的な「相性」という言葉で片付け、対処しやすい方(=立場の弱い正社員)を動かす。問題のある派遣社員に注意するという、面倒で気まずい対応は避ける。
結果、Aさんは仕事を奪われ、加害者は野放しになる。
第五章:数字しか見えない目
ここまでの行動パターンを振り返ろう。
- 36協定の数字を見て「残業減らせ」→ 生活への影響は見ない
- 仕事を振らない → 本人のキャリアへの影響は見ない
- 提案を却下 → 却下された側の心理は見ない
- 被害者を外す → 問題の構造は見ない
すべてに共通するのは、目の前の数字や現象だけを見て、その背後にある人間を見ていないことだ。
これはシステム1思考の典型である(Kahneman, 2011)。
直感的で、素早く、表面的な判断。残業が多い→減らせ。相性が悪い→離せ。それ以上の思考を行わない。
なぜそうなるのか。
一つの仮説は、キャリアの天井だ。
ある程度の役職に達し、これ以上の昇進が見込めない。新しいことを学ぶ意欲も薄れている。日々の業務をこなすことが目的になり、部下を育てる・組織を良くするという視点が失われる。
残念ながら、これは珍しいケースではない。
離職率マスターの離職促進テクニック(まとめ)
| テクニック | 具体的行動 | 効果 |
|---|---|---|
| 心理的契約の破壊 | 採用条件を一方的に変更 | 信頼の崩壊 |
| ボアアウト誘発 | 仕事を与えない | 存在意義の喪失 |
| 偽りの傾聴 | 聞くだけ聞いて却下 | 学習性無力感 |
| 被害者有責 | いじめられた側を罰する | 安全の喪失 |
| 表面的判断 | 数字だけ見て人を見ない | 人間扱いされない感覚 |
これらを組み合わせると、どんなに忍耐強い社員でも、転職サイトに登録し始める。
対策
組織として
-
採用条件の変更は双方合意で
- 残業削減と給与体系はセットで議論する
- 「残業するな、でも給料は下がる」は実質的な契約違反
-
業務量の可視化
- 誰がどれだけの仕事を抱えているか見える化
- 「仕事がない」状態も問題として認識する
-
提案の却下には理由を
- 「いいと思うけど」で終わらせない
- なぜ今はできないのか、いつならできるのかを説明する
-
ハラスメントは加害者に対処
- 「相性」で片付けない
- 被害者を動かすのは最終手段
個人として
Aさんのような状況に陥った場合:
- 記録を残す - 採用時の条件、却下された提案、発生した問題
- 社内の相談窓口を活用 - 人事、コンプライアンス部門
- 転職市場での価値を確認 - 選択肢があると精神的に楽になる
- 無理に耐えない - 心身を壊してまで残る価値があるか冷静に判断
観察者の所感
離職率マスターは、おそらく自分が「離職率マスター」であることを知らない。
彼の主観では:
- 「36協定を守らせている」(コンプライアンス意識が高い)
- 「負荷を減らしてあげている」(部下思い)
- 「話を聞いている」(傾聴できる上司)
- 「人間関係を調整している」(マネジメントしている)
すべてが「良いこと」にカテゴライズされている。
しかし実際には:
- 生活基盤を奪っている
- キャリアを腐らせている
- 無力感を植え付けている
- 加害者を守っている
意図と結果が完全に乖離している。
これが離職率マスターの最も厄介な点だ。悪意がないから、改善のきっかけがない。自分は正しいことをしていると信じているから、フィードバックを受け入れない。
地獄への道は善意で舗装されている。 ― ことわざ
Aさんは今、転職を考えているという。
当然だろう。心理的契約を破られ、仕事を奪われ、提案を却下され、被害者なのに罰せられた。それでも「耐えている」こと自体が驚きだ。
離職率マスターよ。
あなたが守ろうとしている「36協定の数字」の向こうには、人間の生活がある。あなたが「良かれと思って」行うすべての行動が、静かに人を追い詰めている。
Aさんが辞めた時、あなたはきっとこう言うだろう。
「最近の若い人は根性がないね」
その「根性」を削り取ったのが誰なのか、永遠に気づくことはないのだろう。
参考文献
- Bateson, G. (1956). Toward a theory of schizophrenia. Behavioral Science, 1(4), 251-264.
- Kahneman, D. (2011). Thinking, Fast and Slow. Farrar, Straus and Giroux.(邦訳『ファスト&スロー』)
- Rothlin, P., & Werder, P. R. (2007). Boreout! Overcoming Workplace Demotivation. Kogan Page.
- Rousseau, D. M. (1989). Psychological and implied contracts in organizations. Employee Responsibilities and Rights Journal, 2(2), 121-139.
- Seligman, M. E. P. (1975). Helplessness: On Depression, Development, and Death. W. H. Freeman.